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どっちにする?どっちがいいの?働き方

会社に属するか?はたまたフリーランスか? どっちの働き方が正解か、なんてないだけに、 その人の生き方がトレースされる一大問題。 では、ターミナルの主要メンバー3人の場合は? それぞれの経歴をたどりながら、 そこんとこを深掘ってみた。

Author :

Mitsuharu Yamamura

心とむ衣食住のカタチ、生き方や暮らし方を考え、整え、ちゃんと伝える。企業の広告、雑誌や書籍、ウェブなどメディアの編集、執筆を手がけるBOOKLUCK主宰。福岡と東京の二拠点暮らし。

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個人の力ってなんだろう。

20年ほど前、マガジンハウスの「relax」というカルチャー誌がありました。その背表紙には特集のタイトルってより、時の気分みたいな言葉が書かれてあって、地味に毎号楽しみにしててーという人も多かった気がする。

中でもよく覚えているのが、2004年の2月号。

どこにも属さないことに不安をかんじないような芯の強さと軽さを持てたらいいね。

まさに今これ!むしろ今こそこの気分だし、もっと深く噛み締めたいわー。

と、思ったきっかけとなったのがターミナルの主要メンバーである中田さん、石井さん、飯塚さん3人とのトーク。

今でこそ、会社のトップとしてちゃんと「属している」ように見える……いや実際そうなんですけど、3人それぞれの立場なりにそのあたり、ふわっとしていた時期もあったようで。

属するってなにがいいのか、悪いのか。フリーランスとの違いはなんなのか。そもそも個人の力とか、属さないことに不安をかんじないような芯の強さと軽さって?そんなことを考えさせられる話がばちくそ面白かったので、ちょっとここでシェアしましょう。

会社の看板が外れても残ること。

「あの時は、あの世界観の中で生きていたんです」というのは、飯塚さん。高円寺で暮らしていた彼は、まさにこれぞ“中央線カルチャー”とも言える、フリーランスのコミュニティに耽溺していた。

「ファッションの業界で有名な方だったり、デザイナーさんだったり。飲み方もめちゃくちゃで、深い時間から始めて朝まで、なんてのもしょっちゅうで。みんなハチャメチャだけど自由な空気をまとっていて、個人の力でやってるなーと思ってたんです」

かくいう飯塚さんは、6年勤めたアパレル会社がリーマンショックで倒産。「属している安心感はあったんですけど、このまんまあの(フリーランスの)自由さを味わわないともったない、という気になって」さらに会社では営業職だったため「会社の看板が外れると何も残らない」ことに危機を抱いた彼は、考えた末に自身でECサイト運営を開始。ただものが売れなきゃ当然、お金にもならない。事業は難航していた。

そんなおりもおり。飲み仲間の先輩が「お前、ファッションのライターできんじゃない?」と、軽いノリで出版社を紹介してくれたのだ。「確かにアパレルのECサイトで商品の説明は書いてたんで」実際に雑誌の仕事をふられたが「あまりに経験がなさすぎると思って、いったん断りました(笑)」

そこで先輩から、ライター仕事のイロハをたたきこまれた後、編集者が懲りずにふってくれた仕事が、伊勢丹のバイヤーに話を聞くというもの。「聞くだけの役目だと思っていたら『これ、9Pものだからよろしく』と。ほぼだまし討ちでした」

自信はなかったが、断るに断れない。やるしかない。死ぬもの狂いで記事を仕上げて提出したところ「『誠実に書いてもらってありがとう』と言われたんです。経験ないなりに、どうやったら伝わるんだろうと考えて書いたのが、分かってくれたみたいで。それから毎月、お仕事をもらえるようになりました」 同時にEC運営も行いながら、途中でしれっと飲食店経営にも手をつけてみたり、さらにライターとしてだけでなく、撮影現場を取り仕切ったり、進行管理の仕事もするようになったり。いろんな経験がトルネードのように集約され、現在のプロデューサーという肩書きへとつながっていったのだった。

デザイナーは自分の城を持つもの。

飯塚さんが紆余曲折を経ながら現在地へとたどり着いた、いっぽう。

「フリーになることは、デザイナーのことを知った瞬間に決めてました」とまるで迷いなく、するっとこの自由な世界に足を踏み入れたのが中田さん。「憧れですよね。世の中で名の知れたデザイナーはたいてい独立して、自分の城を持っていた。なので自分も絶対にそうなりたい。30歳までに独立しないと間に合わないって、バカみたいに思ってたんです」

25歳の頃。まともな就活もせぬまま、とあるデザイン会社に「拾ってもらって」属していたものの、同時に「アルバイトで友達から頼まれた名刺やチラシを作って」生活費のたしにしてた。すると「わらしべ長者方式で、人づてに少しずつ広がっていって」いつの間にやら「個人で稼ぐお金のほうが大きくなっていった」というのだ(すごいね)。

そこで友人の事務所を間借りし、会社を辞めたのが28歳。実ははからずも、東日本大震災があった翌月だった。「もちろん不安でした。月に1円も入らず、まじでお金がない!って時もありました。けど当時はみんな仕事がなくて大変だったから、なくて当然という感じで」それでも目の前のことを一所懸命やっていたら、少しずつ軌道に乗り始め、30歳で自分で事務所を借りるまでに。

「独立した当時はめちゃくちゃ、寝る間もなく忙しかったですね」でも、ぜんぜん苦じゃなかったのは「デザイン、めちゃくちゃ好きなんです。お金とかじゃなくて、喜んでくれる、いいねーといってくれる、それがとにかく楽しくて」

モニター越しにも(取材はリモート)目尻がやさしく下がっているのが分かる。 「ま、今もそうなんですけどね」

向いてることとやりたいことの狭間で。

当時中田さんが事務所をシェアしていたのは、カメラマンと建築家の3人。しかしもうひとり「気づいたらなぜか毎日のようにいた」のが石井さん。彼は当時、2年間のイギリス滞在から帰国したばかり。「2万しかない」と言いながら、のんべんだらりとそこにいた。

出会いは旅行雑誌だった。石井さんは版元の編集者兼プランナーとして、中田さんはデザイナーとして、仕事の関係から始まった。石井さんはいう。「行政との交渉もやるし、クエイリティブなことにもかかわる。わりと全部やれといわれるので、筋肉はつきましたね」。ただその後「風景を変えたい」と、突如30歳の時に退職。「好きなサッカーでも見ながら暮らせれば」と、特に明確な目的を決めずイギリスへと渡った。

「現地では、“ジャパニーズスシ屋”でアルバイトをしてました」。モーリシャス人から魚のさばき方を教えてもらったり、その包丁が、初めて見る日本製だったり。まるでどっちが日本人?という感じだが「だけどやっぱり、すしを握る時の握力に違いが出るんです。小さい頃からすしを食べて育っているせいなのか、DNAなのか」

また海外での生活は、日本にいた時のことを否応なく思い出させた。「こうして自分で生きてると、あの頃は会社に対して不満を言いながらも、結局は組織に守られてたんだなと。当時はめんどくせーだったのが、ありがたみを感じるようになりました」

なのに帰国後。「で、なにやろうか?」と、さらにもがいていた。「父が自営業だったので、あとを継ぐか。別のことをするか」石井さんの父親は学習塾を営んでいた。「向いてるな、とは思ったんです。子どもを見るのはうまいと自分でも感じていたし、生かせるだろうなと。ただプランナーとして仕事をするほうが、過去の延長線上なので本分だろうと思ったし、これからの人生でもきっとやりたいことだろう、と」

向いてることと、やりたいこと。その狭間でゆらゆら揺れながら、さらに「属する」ことにもゆれていた。中田さんはいう。「しばらくおたがいフリーで仕事をしていたんですけど、30歳のときにここを法人化する時、石井さんに『いっしょに会社やろうよ』と誘ったんですけど、最初やだって断られて。しつこく誘って、やっと入ってもらったんです」

あの時、なにが心を遮っていたのか。そう問うと、石井さんは天を仰ぎ見ながら、長い間考えていた。「ここで“やる”と言えば、やることになるんだよなー。でも、100%コミットするのはどうなんだろうなーって。組織に入ることにふんぎりがつかないというか。なんでも先延ばし傾向でした」

かといって、何も考えていないわけではない。むしろ誰よりも考えている。また誰よりも、この仕事に対しての深い愛をじんじんとたずさえている。

ひょっとすると、だからこそ。企業やブランドの根っこを、クライアントとともに「いっしょに考える」というプランナーという仕事が「本分」といえるのかもしれない。

こうして3人の話を聞いていると、みんなどストレートな道からは、ちょいと外れて生きている。ゆえにそれぞれなりの不安はあるし、迷いもある。一筋縄はいかないけれど「どっこい生きてる感」こそが、芯の強さや軽やさに「結果」なっているのだと。そうなったら「属する属さない」ってのは、もはや関係ないのかも、とも。 彼らが今、ターミナルにいる時点で、すでに飛ぼうとしているのだから。

→vol.02に続く。